2018年 08月 16日 ( 1 )

勢古浩爾氏の著書に学ぶ

おはようございます。
8月16日(木)、五山の送り火ですが数年前のような雨にならなければと思います。
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ミシマ社の本で勢古浩爾氏の【アマチュア論】というのがある。
どこを開いても私には…というか、「人間としてのアマチュア」という言葉が「(自称)プロ」と名乗っていないかという人としての生き方の本質を示唆してくれている。

そのなかで後半、202~203項にこう記されているのだが、弟子時代の私に特に読ませてやりたい部分である。
ようするに、すべての立場は最終的に「自分という立場」に収斂するのである。これが思考や行動に影響を及ぼさないはずがないのだ。
(中略)
どんな人間であれ、わたしたちは多かれ少なかれ、なんらかの立場に規定されている。これらの立場を超えることは可能か。免れる方法がたったひとつだけある。「人間という立場」に立つことである。もしこれができるならいうことはない。けれど、それが可能なのはたぶん思考のなかにおいてだけである。行動に移されたとき、欲望渦巻く「自分」がその思考を食い破ってでてくる。それを抑えつけることができるひとはまれである。そのような人間がいたら、わたしは心の底から尊敬する。
立場を超える次善の方法は、「自分という立場」からできるかぎりその「自分」を抜くことである。「佐賀のがばいばあちゃん」のいう「卵かけご飯の卵抜き」である。目の前の事実を直視して、そのなかに「自分」を勘定に入れないこと。そんな仏様なようなことができるのか。できるに決まっている。「自分」を抜くことが「自分」を生きることになるからである。逆のことを考えてみればいい。自分だけが楽しいゲームなど楽しいわけがないではないか。自分だけの幸せ、なんて、そんなものは幸せでもなんでもない。
そもそも勢古氏は第1章でこう記している。
われわれ俗人は基本的に人間としては素人である。よくてアマチュアである。そのアマチュアからより良きアマチュアになれるかどうかが人生の課題なのである。人間としての基本(倫理・礼節・責任など)を身につけていない者は、人間のド素人である。(37項より引用)
私は一応、はり師きゅう師の免許を有しているが、ではそれでプロかというとずっと疑問でした…というのは引用した文に詰まっているんですけどね。

私はどうしても免許があることで鍼や灸を他者に施すことができるぐらいで、体と関わるという点に免許は関係ないと思っています。
患者さんの方が詳しいですよ、なんせ自身のことですから。
しかしそこに「自分」があると難しいようですから、体のことに関しても「自分」を抜くことが大切な要素かもしれないとここ3年ほど感じております。
さらにここ半年は、「自分」を抜く一助として徒手検査が担っているのではないか実感しております。

勢古浩爾氏の視点は「ウソつきの国」(ミシマ社)でも感じておりますが、医療人に欠けてはいけないことが含まれているように思います。
最近は本を読めていませんが、勢古氏の本はチェック済み。

それでは、本日も反省と学びを反芻しながら始動!
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by treatment-suzaku | 2018-08-16 09:52