三木成夫の世界に触れて…

おはようございます。
8月2日(木)、風が吹かない夜は辛い!
雨乞いじゃないですが、夕立カモン。
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さて、鍼灸師であっても解剖学は必ず学ぶものですが、これは学生のときだけではなく一生学び続ける学問です。
ですが、解剖学は切り取った学門として教わります。
師匠からは「解剖、生理、病理が横並びに繋がらんと臨床できない。下手したら国家試験も落ちる」とよく云われていました。
資格取得後の方が解剖を学んだのは確かです。
その中で、解剖学といえば「川原群大」先生なんですが、ご縁があって晩年の講習会に数回参加したことがありますが、迷宮の案内人という感じでした。
あのときのノートを見返すとその詳細な観察力に衝撃を受けます。

しかし、私にはどうしても解剖学という切り取られた世界が狭く感じていたことがあった。
すると父から渡された1冊の本が「三木成夫」というちょっと変わった解剖学者の本でした。
あっという間に、解剖学の世界が広がったのを覚えています。
片っ端から可能な範囲で書籍を購入しました。
その中のひとつがこれ。
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【ヒトのからだ ―生物史的考察】うぶすな書院

解剖学が切り取られたひとつの世界としたら、三木成夫先生の解剖学は切り取り線はあるけれど繋がった世界の一部、という印象です。
過去のブログでも三木成夫先生のことは書籍からの引用で何度も書いていますが、今日はこの本の第1章冒頭をご紹介したいと思います。
武道や武術、ヒモトレなどが自身の施術に転用できたのはこうした言葉との出会いがあったからなのかもしれないと、ふと思い出されたので。
人々はだれでも、自分のからだに対して深い関心を示す。そしてものごころついて以来、そのいちいちをくわしく点検し、あるいは親にたずねたり、あるいは他人のそれと比較したりなどして、いろいろと考えてきたのである。
しかし、あらためてふり返ってみると、このような関心の対象となるからだの部分は、一般に限られたもので、すべての部分に注意が向けられることはけっしてない。そしてまた、その関心の対象が、年齢とともにしだいに移りかわるという傾向にあることも、否定できないことであろう。
(中略)
ヒトのからだには、われわれの想像を絶する無数のいとなみが、休みなく行われている。しかし、いま述べたように、一般の関心がそのような枠の内に限られるということは、要するに“食と性”、さらには“生と死”に対する人間の煩悩が、いかに根強いかということを物語るもので、実はこれもまたやむを得ないものと思わねばならない。
しかし、われわれはここで、次のようなことを考えてみる必要がある。それは、このような観点からとらえられ、組み立てられた人体というものは、しょせん、いわば“欲の窓”からながめたひとつの景色に過ぎず、人間本来のからだつきからは、ほど遠いものであるということを。
つまり、この肉体もまた、自然のもろもろの出来事と同じく、われわれの注文のとどかぬ世界で動いているのであるから。(2~3項より引用)

解剖学を学ぶにつれ、なぜかカラダとの距離を感じていたことが、三木成夫の世界に触れたことで地続きになった。
そしてこの世界に触れたことで外に出ることができ、新しいはずが懐かしい出逢いへと繋がり、ヒモトレや韓氏意拳に出逢ったことで、再び三木成夫先生の言葉たちが身に馴染んでいく。

Renが生まれたことによって三木成夫の世界に触れることができた。
Kちゃんとの出逢いが、師匠との出逢いが、体操との出逢いが、弟の誕生が、父と母の出逢いが…ヒト以前、地球の有史…いや宇宙の誕生以来続いている流れの中で、私という一瞬を切り取っただけにすぎない。
だが生きている。
私は今、ここにいる。
過去に囚われるつもりはないが、過去を受け入れられるよう日々を送り続けるしかない。

長々と脈略のない話でした。
申し訳ない!

それでは、本日も反省と学びを反芻しながら始動!
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by treatment-suzaku | 2018-08-02 08:21